2014/10/27 長谷川の教育論[5]

「人は行動することで意欲を向上させる」という性質がある。例えば会社の慰安旅行でどこかの旅館に行ったとする。風呂上りに若手社員が卓球台を見つけ、「課長、卓球やりましょう」と誘う。「部屋に帰ってスポーツ・ニュースでも見たいなあ」と思いながら、しぶしぶ付き合う。ところが、ひと汗かいて興が乗ってくると、「紙とペンを持ってこい。温泉宿卓球大会だ。優勝者にはビールを贈呈する!」と盛り上がったりする。行動で意欲が向上する例だ。勉強も同じである。受験勉強の夜、気付くと夜中の3時。何か勉強を辞めるのが惜しくなり、結局、夜が白々と明けるまで勉強を続けてしまった…そんな経験を誰もがしているのではないか。
 受験学年を前にした生徒は言う。「4月になったら頑張る」と。しかし、4月になって頑張ることはない。今度は「ゴールデンウィークが終わったら」と言い出す。そして「部活が終わったら」「誕生日が来たら」と言うだろう。かれらは頑張るきっかけを探しているのではない。「今、やらない言い訳」をしているに過ぎない。その間、勉強という行動をしていないので当然、学習意欲も湧かない。ずるずると貴重な時間が浪費されるだけだ。
 大きな丸い石を動かす時、最初のひと転がりに最も大きな力を必要とする。しかし、一たび石が転がり始めれば、後は少しの力で石は転がり続ける。歯を食いしばって最初の行動を起こすこと。それ以外に意欲を高める方法はない。それは辛い行為だ。だからこそ、そこに指導者の役割がある。生徒に辛い思いをさせるのは我々も辛い。しかし、それを避けていては子どもは学習意欲をもてない。成長もしない。だから我々は心を鬼にして?恨まれることも覚悟して?学習を強いる。そこに妥協しないことが指導者としての矜持だ。
 もう一つ、人が持つ根源的な性質がある。それは「人は形に反応する」ということだ。形式に反応すると言い換えてもいい。形式的と言うと批判的に捉えることが多いが、実は重要なファクターだ。入学式、卒業式、結婚式…形式を通して人は成長のきっかけを掴む。生徒にとって定期テストや入試は、その「きっかけ」である。テストのために勉強するのではない。勉強するためにテストは存在する。だから…
京進スクールワン吉野町教室は、一つ一つのテストを大切に考えている。