2014/10/13 長谷川の教育論[3] 

「教育」という言葉は言うまでもなく「教える」「育む」が合成されている。かつては「教える」に重点が置かれ、詰め込み教育だの偏差値教育だのと批判された。すると今度は「育む」に重点が置かれ、自主性の尊重だの子どもの人権だのが重要視される。日本人の悪い癖なのだが、振り子のふり幅が大きく、常にどちらかに偏ってしまう。
 言うまでもなく、その両者のバランスが大事なのだ。どちらが優位かではなく、どちらも重要だというスタンスを持って子供を教育することだ。親の立場に立てば、世の中のルールやマナーを教えることを避けてはならない。「うちは子どもの自主性に任せ、伸び伸びと育てています」と言えば聞こえはいいが、これでは子供を不自由にするだけだ。
 時に「俺は自分の思ったように自由に生きている」と主張する若者がいる。しかし私には、その若者が実に不自由に生きているように見えてならない。反面、周りの人に配慮し、相手を敬い、ルールを守り、謙虚に振る舞っている人の方が自由に人生を歩いている。考えてみれば当たり前である。
 「俺は好きなように自由に生きるんだ」と振る舞う人は、必ず抵抗する社会に直面する。その道を塞ごうとする勢力が生まれる。ところが謙虚に周りに配慮して生きている人には、周りが協力して道を開けてくれる社会が存在する。どちらが自由に歩けるか…言うまでもない。例えてみれば、人ごみの中を一直線に駆け出す人と、「ごめんなさい、通してください」と遠慮がちに声を掛けて歩く人の違いだ。
 前者は遠からず誰かとぶつかり、トラブルを引き起こす。目的地に到達することすら危うい。それに対して後者は、人ごみの中をスイスイと渡り、ほどなくして目的地に着くに違いない。子どもを自由に(有体に言えば我がままを許して)育てることは、不自由な人生を歩ませる結果を招く。
 勉強とは不自由な作業である。しかしそれは、自由な人生を構築する大きな武器となる。